僕には、運命の糸が見える。けれど、僕に見えているそれは、世間でよく知られているものとは少し違っている。
運命の糸と言えば、多くの人は運命の赤い糸を想像するかもしれない。けれど、僕に見えているそれは、時に青く、白く、黄色で、緑。もちろん赤い糸もあるけれど、とても多様な色をしている。それは恐らく繋がりを表していて、その色はきっと、繋がりの意味を示しているのだろう。
僕には、運命の糸が見えない。誰かと誰かを結ぶそれが、僕の指にはない。ある人にはたくさん結ばれているそれが、僕の指にはない。そのことが僕の何を表しているのか、あるいは表していないのか。理解するのにそれほど時間はかからなかった。納得するのに時間はかかったけれど。
運命の糸が見えるようになったのは、中学に入った頃だった。意味するところを知ったのは、中学卒業間際だった。高校に入ってから僕は、ほとんど学校で話さなくなった。誰とも繋がりが持てないという確信が、僕をそうさせた。
「おはよう」
彼女は毎日、誰よりも早く学校に来る。そして、教室に入ってくる全員にあいさつをする。僕も含めた、全員に。
彼女は、とてもよく出来た人だ。クラス委員長で、男子からも女子からも、先生からも信頼されている。人気もある。誰にでも優しいし、誰よりも厳しい。もっといえば、指には大量の糸が結ばれている。あれほどの糸が結ばれている人は、彼女以外には今まで見たことがない。それを含めて、彼女は僕とは正反対の人だ。
「吉野くん、今日お昼はどうするの?」
「今日はお弁当があるから」
「そうなの。私もお弁当なんだけど、一緒に食べていいかしら」
彼女はこういう人だ。誰にでも優しい。どこかのグループにいるわけじゃない。きっと彼女にとってはこのクラスが彼女のグループで、僕のその一員と言うことなんだろう。また、それをクラスのみんなも承知していて、彼女が男子と二人で昼食を取っていても、誰一人冷やかしはしない。彼女の人格が窺い知れる。
「吉野くんって、友達はいないの?」
彼女はこういう人だ。誰よりも厳しい。答えにくい質問をするのにためらいがない。しかも、答えにくいとわかっていて聞いてくるのだからどうすることもできない。
「まあ、見ての通りだよ」
「そう。寂しくはない?」
「寂しいよ。つまらないし」
「なら、もっとクラスのみんなと話してみたらどう? 今より少しは楽しくなると思うわ。それとも、何か訳があるのかしら」
理由ならある。はたから見れば、何てことのない理由なら。言ったところでどうなるわけでもないけれど。
「……あるよ」
「そう。よかったら話してくれない? 何か力になれるかもしれないから」
彼女が優しいのはよくわかっているつもりだ。でも、その優しさもしつこいと鬱陶しく感じてしまう。どうせ、最後にはなくなってしまうものなのだから。いや、本当は最初からないのかもしれない。僕と彼女の間に、糸がないように。
「……そう。まあいいわ。ところで吉野くん、良かったら放課後少し残ってくれない? 仕事が残ってるから手伝ってほしいんだけど」
「別にいいよ。特にやることもないし」
「じゃあお願いするわね。また放課後に」
そう言って彼女は席を離れた。
放課後、掃除が終わった後、彼女を教室で待った。
「お待たせ。ゴミ捨てに時間がかかっちゃって」
「いいよ。急いでないから。それで、仕事って何をしたらいいのかな」
「ちょっと場所を変えましょう」
彼女についていくと、図書室に着いた。この学校の図書室はそれなりに立派なのだけれど、それほど利用者は多くない。特に試験後の放課後の利用者など皆無と言っても過言ではない。
「このあたりでいいかしら」
彼女が歩みを止めたのは、図書室の一番奥。図書委員の目も届かないところだ。
「どうぞ、座って」
彼女は促す。その言葉には、朝の優しさと、昼に見た厳しさが同居していた。
「それで、仕事って?」
「あなたの話を聞くわ。昼の続きを」
そう来たか。いやに昼はあっさり引いたと思ったけれど。
「……話せばきっと、君は僕を『変な人間』だと思うよ」
「それは違うわ。もう思っているもの。だから、あなたにとっては何も変わらない」
もっともな論理ではある。それに、どうせ僕の指に糸はない。誰にどう思われようと、結局は関係ないことなのかもしれない。それならば、試しに話してみるのもいいかもしれない。なぜなら、彼女は優しい人だから。
「君は、運命の糸って信じる?」
「運命の赤い糸のことかしら? それなら信じないわ。あったら面白いとは思うけれど」
そうだろう。頭のいい彼女らしい返答だ。
「僕には、運命の糸が見えるんだ」
大概の人間は、こういえば僕を頭のおかしい人か、痛い人と見るだろう。僕ならそうするからだ。しかし、彼女の反応はそうではなかった。
「……へぇ、そうなの。それは、面白いわね。あなたに見える運命の糸って、どんなものなの?」
実に興味深げだ。彼女の器は底が知れない。
「色は赤だけじゃないけれど、誰かと誰かを結んでいるのは、良く知られているのと変わらないね」
「それで、その運命の糸と友達がいないことと、一体何の関係があるのかしら」
「運命の糸は、一生の関係を示すものだと僕は思っている。それが誰とも繋がっていないということが、どういう意味を示すと思う?」
「その人が、繋がりのない一生を過ごす、ということになるかしら」
彼女は即答した。表情は、先ほどと変わっていない。
「それが、自分だったら、君はどうする?」
彼女は沈黙した。しかしその表情は、あきれや諦めではなく、さっきよりも一層興味深げな顔をしていた。
「なるほど、そういうことね。ところで、二つ聞いてもいいかしら」
「何かな」
「私には、その糸はつながっているのかしら」
「そりゃあもう、数えきれないほど」
「じゃあもう一つ。これは確認だけれど、私とあなたの間には糸はないのよね?」
改めて僕と彼女の手を見る。何度見ても、僕と彼女の間に、運命の糸は結ばれていない。見れば見るほど、彼女と僕の間に広がる明らかな隔たりが胸に痛い。
「確かに、僕と君は結ばれてはいないよ」
「そう。なら、こうしましょう」
そう言うと彼女は静かに立ち上がり、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。静かに、足音を殺すようにしながらも、しっかりと地面を踏みしめて歩いていた。僕の席の横まで来て立ち止まり、彼女は言った。
「私と付き合って」
その直後。彼女は僕の座っている椅子の背もたれに手をつき、身をかがめ、彼女は僕から全ての反論を封じた。物理的にそうであったし、頭の方はそれどころではなかった。彼女と僕の唯一の接点がその時の僕の全てであり、そこから伝わる感覚が僕の思考と時間を支配していた。
彼女が顔を上げた時、制服の肩から彼女の長い黒髪が流れ落ちた。彼女は、少し乱れた髪を直しながら、静かに僕を見つめていた。黒い髪と対照的な白い肌。静かで、繊細な所作。僕は彼女の一挙手一投足に、目と心を奪われていた。
「もう一度言うわね。吉野くん、私と付き合って」
彼女は繰り返した。さっきの言葉は、聞き間違いでも夢でもなかったようだ。
「それは……駄目だよ」
「どうして?」
どうしてもだ。僕だって、誰かを好きになったことはある。けれどその度、自分に言い聞かせてきた。
「僕と君は、いつか必ず別れて、他人同士になる。それくらいの浅い繋がりしか持てない。だったら、君は僕なんかと付き合わないで、もっとほかのいい人を探したらいい」
これは建前だ。いつもそうしてきた。本音をぶつけるには、僕はあまりにも弱すぎるから。
「あなたは、人との繋がりをとても大切に思っているのね」
彼女は理解したように言った。
「誰かと繋がりを持つということは、あなたにとっては一生のものなのね。だから浅い繋がりや、いつかなくなってしまうものを避けてきたのよね。でもそれって、私にしてみればすごくもったいないこと。あなたの言う浅い繋がりでも、日常を少し色づけるには十分なはずよ」
彼女の言うこともわかる。きっとそうなのだろうと思っても、いずれはなくなると頭のどこかで否定してきたことだ。
「それでも、僕が一生深い繋がりを持てないということに変わりはないよ」
「それなら、私があなたの一生の繋がりになってあげる」
僕は耳を疑い、次に自分の頭を疑った。彼女が僕の一生の繋がりになる。それはつまり、そういうことでいいのだろうか。
「私は今から、あなたのことを好きになる。そして一生、あなたのそばにいるわ。私かあなた、どちらかが死ぬまでずっと」
大方あっていた。
「でもどうして君はその、僕と付き合おうと思ったんだ?」
「夢だったの。運命に逆らうことが。さっき、運命の糸は信じないって言ったでしょう。あれはね、運命に縛られて生きたくないからなの。私は自分で決めて、自分で生きたいと思っているの。今はまだ無理だけれど、いつかそうしたいって思っているわ。そういう意味で、あなたは私にうってつけの人と言うことになるわね」
しかし、それなら。
「君は、自分に嘘をついて、これからを過ごしていくつもり? 運命に逆らうっていう、ただそれだけのために、自分を偽って生きていくの?」
「自分で決めたことだから、後悔はしない。それに、嘘をついたって偽ったって」
彼女はこちらに向き直って言った。
「私は、あなたが大好きよ」
彼女と付き合ってから、もうずいぶん経つ。できるだけたくさんの人と関わるようにしてからというもの、僕の日常は華やかになった。彼女の言うように、浅い繋がりもそう悪いものではなかった。実際のところ、僕は繋がりがなくなるのを恐れていただけなのかもしれない。今では、その感情もすっかり影を潜めている。
長く一緒にいる間に、僕の彼女に対する思いは、少しずつ変化してきた。彼女の方はどうだろう。僕と同じように変わっているのだろうか。それとも、今もどこかで自分を偽っているのだろうか。
「どうしたの?」
「いや、なんでもないよ」
確かめる術はない。だからこそ僕は、いつまでも彼女との偽りの絆を確かめ続ける。これからも、ずっと。
「愛してるよ」
「私も、愛してるわ」