夢を、見た。
夢の世界に色はないと言う。しかし、その夢は、夢のような彩りを持っていた。
ただ、現実とはまったく同じ色であった。にもかかわらず、夢のような色であった。
感性が異なるのか。感性が異なるのだろう。
全く同じ景色なのに、全く異なる景色であった。
感性が異なるのだ。
人は、いた。しかし、話しかけることはできなかった。
いや、話しかけようと思うこともなかった。
普段そうしないからだろうか。
そこにいたのは、いつもと同じ、見知らぬ顔の人々だった。
顔は付いていた。夢の中では、人はのっぺらぼうになると聞いていたが、顔は付いていた。
誰も僕を見ていなかった。いつもと同じだ。
僕も、彼らを見なかった。いつもと同じだ。
服は、いつもと同じ服だった。
当たり障りのない、没個性な、誰でもないような服を着ていた。
夢の中では寝間着を着ていると聞いていたが、寝間着ではなかった。
夢についての情報も、あてにならない。
少し歩いて、家に向かった。
僕の家はマンションなのだが、この家は一軒家であった。
しかし、この一軒家が即座に自分の家だと認識できた。
そうあるものだと理解できた。
間取りが全く違うのに、僕の部屋の中は全く同じであった。
ベッドの位置、机の位置、電灯の形状、床の散らかり具合、窓の外の景色。
全て同じだった。
にもかかわらず、その部屋の中にいても、ああ、ここはいつもの家と違う形をしているのだなと、漠然と理解できた。
再び外に出たが、普段と何も変わらなかった。
ふと足の裏に違和感を覚え、靴の裏を見ようとしたが、靴を履いていなかった。
ああ、そう言えば急いでいて靴を履いてくるのを忘れてしまっていたのだ。
なぜ急いだのか?
ああ、なぜだろう。ここは夢の中であった。
学校へと歩いて行ってみた。
上履きに履き替えなければならない。土足で上がるのはどうかしている。
そう言えば、靴をはくのを忘れていた。
とりあえず、げた箱には靴の代わりにかまぼこ板を入れておこう。
上履きに履き替え、教室に向かうと、中には誰もいなかった。
それはそうだ。今日は日曜日だったはずだ。
遠くから部活動を行う生徒の声がする。
校庭を見ると、誰もいなかった。しかし、声だけがしていた。
感じる。
校内の四階、一年八組の教室前にいる。
背中に視線を感じる。
教室の中には誰もいない。
誰かが聞き耳を立てているのを感じる。
窓の外から、まぶしいくらいの日差しが差し込んでいる。
空気をなでているのを感じる。
腕に当たる日光が、肌を温めている。
息を吸いこんでいるのを感じる。
足の裏がむずがゆくなる。
空気を味わっているのを感じる。
突如、体を浮遊感が襲う。
振り返ってはならない。
ただ、そこにいるのを感じる。
振り返ってはならない。
存在感が背後にある。
振り返ってはならない。
ただ、走れ。
逃げろ。
振り返ってはならない。
走れ。
逃げろ。
走れ。
僕は走り出した。
廊下を走ってはいけないのだが、今はそれどころではないように感じていた。
直感していた。
地面を強く蹴りだし、走り出す。
反動で飛びあがってしまい、天井に頭をぶつける。
痛みはない。
それどころではない。
再び着地し、再び走り出す。
足の裏がむずがゆい。
感覚が違う。
足が空回る感覚。
重力が弱い。
一歩蹴りだせば、普段の二倍ほどの浮遊感。
つま先で地面をけることしかできない。
走っている。
しかし、走れない。
ゆっくり、浮遊しつつ走る。
気配は止まらない。
しかし、振り返ってはならない。
ふわふわと走りながら、階段を下りる。
跳んだ。僕は跳んだ。
十二段の階段を駆け下りない。
十二段の階段を跳んだ。
最上段で可能な限り踏み切った体は、ふわりと柔らかに宙に浮く。
空気を肌で感じる。
僕は、浮かんでいる。そう錯覚した。
緩やかな放物線を描き、最上段から踊り場まで跳躍する。
着地は軽やかだった。
足音すらしなかった。
翻り、再び階段を跳躍した。
見てはならない。
視界に入らぬように、細心の注意を払って階段の下へと視線を向けた。
ふわりと体が浮いた。
踊り場から三階までの十三段を跳躍した。
体が浮く感覚。
強烈な浮遊感。
もう何メートル落ちただろうか。
その時間、体感で一分。
再びふわりと着地した。
浮遊感から感覚が解き放たれる。
恐怖した。
もう地面につけないのではないか。
もう浮くのはこりごりだ。
あと一度飛び降りよう。
窓から下りればあれもついてこない。
浮遊感からも解放される。
振り返ってはならない。
全身の感覚が、それを感じていた。
視界に入らずとも、それが見えた。
聞き耳を立てなくとも、それが聞こえた。
全身の触覚が、それに触れていた。
振り返ってはならない。
逃げなくてはならない。
走った。
僕は走った。
三階の廊下に隣接した窓。
そのうち一つを開け放ち、足をかけ、ひと思いに踏み切る。
その瞬間、三度浮遊感が体を襲う。
足に力が入らない。
踏ん張りが利かない。
跳躍できない。
僕はバランスを崩し、まっさかさま落ちた。
絶えず浮遊感が体にまとわりつく。
落ちたことへの不安はない。
僕は浮いている。体をくの時に折り曲げ、足を地面に向ける。
狙って、狙って、地面を踏みつける。
ふわり。
音もなく地面を足の裏がとらえた。
お帰り。
足の裏に地面からの圧力を感じる。
全身の浮遊感が一挙に取り払われる。
走れる。
全身に力を感じる。
全身にそれを感じる。
振り返ってはならない。
それが襲い来る。
逃げなくてはならない。
僕は走った。
校門は目の前。
とにかく、学校から離れなくては。
それを見てはならない。
僕は走った。
さっきまでとは違う。
足の裏に、圧力がかかる。
地面の全てが、僕の体を押す。
僕は走った。
これまでに感じたことのない、凄まじいスピード。
自転車を追い越し、車を追い越し、道路をかける。
邪魔なものは飛び越える。
浮遊感はない。
人をかき分け進む。
人をかき分け走る。
かき分けられない人は飛び越える。
幾度か人にぶつかった。
しかし、謝る間もなく先へ走る。
音はしない。しかし聞こえる。
それが近付いている。
振り返ってはならない。
僕は走った。
風になった。
光になった。
僕は走った。
とにかく帰るんだ。
僕の家に向かった。
僕は走った。
地面を感じる。
空気を感じる。
浮遊感はない。
足の裏から、自信が流れ込んでくる。
踏みしめ、走った。
そう言えば上履きを履いたままだった。
地面を感じて走る。
景色が後方へと、それの方へと流れていく。
振り返ってはならない。
木が、道路が、建物が、後ろへと流れていく。
それを感じる。
僕は走った。
息は上がらない。
どこまでも走っていける。
どこまでも逃げ続けられる。
横断歩道につかまる。
捕まるわけにはいかない。
横断歩道を飛び越えた。
地面の力が全身に伝わる。
体中が力で満ち溢れる。
僕は、その大きな横断歩道を飛び越えた。
浮遊感はない。
そのまま電柱も、電線も飛び越え、走る。
僕は走った。
家に着いた。
一軒家ではなくなっていた。
エレベーターで上がり、家に入ってカギをかけた。
感じる。
扉の向こうに、それがいるのを感じる。
見てしまう前に、のぞき窓をふさいだ。
物置からガムテープを出し、のぞき窓を厳重にふさいだ。
扉の向こうに、それがいるのを感じる。
しかし、扉の向こうは、もう見えない。
安心した。
僕は安心した。
扉の向こうに、それがいるのを感じる。
もはや見えないが、それがいるのが見える。
もはや聞こえないが、それがいるのが聞こえる。
僕は安心した。
この扉がある限り、もう大丈夫だ。
息は上がっていない。
しかし、体中に疲労を感じる。
休もう。
もう休もう。
僕はベッドへ向かった。
ああ、そう言えば、これは夢だった。
再び眠りに就けば、今度は目が覚めるはずだ。
扉の向こうに、それがいるのを感じなかった。
もはや、それはいない。
目が覚め、学校に行く準備をする。今日は月曜日である。
長くこの感覚から離れていたような気がする。
浮遊感はない。
疲労は、特にない。
足の裏はむずがゆくない。
地面の力は感じない。
全身の感覚の全てが、今が現実であることを意識させる。
ドアノブに手をかけ、扉を開けようとする。
夢の内容を思い出す。
扉の向こうに、それがいるのを感じていた。
しかし、今は何も感じない。
今は現実である。
扉を、なぜかそっとあける。
音をたてないように。
扉の向こうには、何もなかった。
普段通りの景色が広がっていた。
家は一軒家ではなかった。
僕は安心した。
家の中に向かって、行ってきますを言った。
家族の行ってらっしゃいが聞こえた。
感じる。
感じる。
いる。
それがいる。
扉の向こうに、それがいるのを感じる。
なぜ、僕は気付かなかった。
扉には、のぞき窓があった。
なぜだ。
なぜ、のぞき窓が塞がれていたのだ。
それも、ガムテープで。
振り返ってはならない。
振り返ってはならない。
なぜ、僕はできなかった。
振り返っては、ならなかったのに。