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七夕の約束

 七月一日。
 真夏の気配が漂い始めている。肌にまとわりつく湿気が、一層夏の気配を強く感じさせる。蝉はまだ鳴いていないが、気温と湿度が、夏を嫌が応にも思い起こさせた。
 家のベランダは少し広くなっていて、いすがいくつか置けるくらいのスペースがある。そこに寝転がって空を見上げるのが、俺の昔からの習慣だ。
 夕飯が終わり、いつものようにベランダに出ると、空を見上げた。漂う雲の間から儚い星の光が微かに見える。今日はそれほど天気が良くないみたいだ。
「おーい、カズくーん。いるー?」
 下の方から声がした。よく聞きなれた声だ。
「詩織か。どうした、こんな遅い時間に?」
「塾の帰り。カズくんは何してるの?」
「星見てるの」
「そっか。カズくん、星好きだもんね」
「まーな。見ていくか?」
「ううん、今日はやめとく。明日早いから」
「そうか。じゃ、またな」
「うん。またね」
 詩織との付き合いはかなり長い。幼稚園に始まり、小学校、中学校と同じクラスだった。高校は別々になってしまったが、家がそれなりに近く、時々こうして話すこともある。最近は塾が忙しいらしく、話す機会も少なくなってしまった。
「進学校は大変だな」

 七月二日。
 昨日よりも肌寒い。日中雨が降った影響だろう。まだ梅雨が明けていないせいもあり、ここのところよく雨が降る。
 ベランダは雨に濡れ、寝転がることはできそうにない。
 空はと言えば、雨雲はすっかり流れ、たくさんの星が瞬いていた。
「おーい、カズくーん」
 下から詩織の声がした。
「どうした、今日も塾か?」
「今日は塾お休みだよ。コンビニの帰りなの」
「そうか。お菓子でも買ったのか?」
「うん。ロールケーキと、ポッキー買ってきたの」
「あんまり食べ過ぎるなよ。太るからな」
「ありがと。じゃあ、またね」
「おう」
 実のところ、俺は星を見るのは好きだが星に詳しいわけではない。星を眺めていると心が落ち着く。ただそれだけで眺めている。

 七月三日。
 今日は今年一番の暑さだった。アスファルトは焼け、ジリジリという音が聞こえてきそうなほどに熱くなっていた。
 しかも夕方ごろから曇ってきたせいで、星が全く見えない。その上熱が逃げないせいで、この時間になっても凄まじく暑い。今晩は熱帯夜になりそうだ。
「おーい、カズくーん」
 詩織だ。
「よう。今日はどうした? 散歩か?」
「そうなの。最近忙しかったから、気分転換だよ」
「進学校は大変そうだな」
「そうだよ。もう目がまわりそう」
 一時、沈黙する。
「ねえ、カズくん。もうすぐ七夕だね」
「ああ、そうだな」
「今年は、天の川見えるかな?」
「さあ、どうかな。天気予報じゃ晴れって言ってたけど」
「そっか。晴れるといいね」
「そうだな」
「じゃあ私そろそろ行くね」
「おう、じゃあな」
 そういえばあいつは、いつも七夕を楽しみにしていた。織姫と彦星が会えるかどうかをいつも気にしていた。今年は、晴れるだろうか?
 
 七月四日。
 これでもかというほどに一日晴れ通しで、昨日に引き続き今年一番の暑さとなったようだ。今の時間になっても雲一つない星空が広がっている。
 ふと思い立ちベランダから下を見ると、案の定詩織がいた。
「よう、詩織。塾帰りか?」
「あ、カズくん。そうなの」
「その手に持ってるのは何だ?」
「これ? えへへ……じゃーん!」
「なんだ?」
「今日はカズくんのためにお夜食を買ってきてあげました」
「おお、何だ。珍しいな」
「今日はお天気もいいからね、一緒に星見てもいいかな?」
「いいぜ。上がってこいよ」
 部屋の中から詩織が出てきた。
「おじゃまします」
「夜食って何買ってきたんだ?」
「たこ焼きと、焼きそばを買ってきたよ」
「夏祭りかよ」
「いいじゃん、好きなんだから」
「そうだな。とりあえずいただきます」
 割り箸をもらい、焼きそばを食べ始める。
「カズくん。今年は織姫と彦星会えるかな?」
「大丈夫だって。きっと会える」
「そうだといいな」
 たこ焼きを頬張る詩織。
「七夕の日、一緒に星見ないか?」
「いいよ。一緒に七夕の星見るの、久しぶりだよね」
「中学以来か?」
「そうだね。今から楽しみにしてる」

 七月五日。
 今日は晴れたり曇ったり、忙しい天気だった。今はと言えば、全面が雲に覆われている。ときどき雷も鳴っていて、今にも雨が降り出しそうだ。
 そう思っていると、一滴、頬に水滴が落ちてきた。手に持っていた傘をさす。こんなこともあろうかと傘はちゃんと持ってきておいた。
 雨はあっという間に強くなり、途端にどしゃ降りになった。その中を走っていく人影があった。
「あ、カズくん! 雨すごいね!」
「詩織お前、傘はどうした?」
「持ってなーい!」
「傘貸してやるからとりあえずうちに入れ!」
「えへへ、ごめんね!」
 家の中に入ってきた詩織は、頭の先から足の先までずぶ濡れで、かばんを傘代わりにしていたせいでかばんも見るに堪えない状態になっていた。
「ほら、タオル。とりあえず拭けよ。風邪ひくぞ」
「うん、ありがとう」
「シャワー浴びていくか?」
「ううん、悪いよ。それに、私の家そんなに遠くないから」
「そうか。気をつけて帰れよ。傘はいつでもいいから」
「わかった」
「ちゃんと風呂入って、暖かくして寝ろよ」
「うん、わかった。じゃあね」
「おう」
 
 七月六日。
 いつもと同じ時間にベランダに出て、星を眺める。今日は割と雲が少なく、それなりにきれいな夜空が広がっている。
 しかし、ベランダに出てから三十分がたっても、詩織は現れなかった。七月に入ってからというもの、毎日詩織と会っていたせいか何か落ち着かない。
 明日は七夕だ。明日は来ると言っていたから、きっと会えるだろう。
 
 七月七日。七夕。
 朝、詩織からメールが来ていた。
『風邪ひいちゃった。今日一緒に星見られないかも。ごめんね』
 一昨日の雨が原因か。ちゃんと暖かくして寝るように言ったはずだけどな。今日は学校も休みだし、お見舞いにでも行くか。
 詩織の家につくと、詩織の母が出迎えてくれた。
「あら、カズくん。久しぶりねぇ。中学校以来かしら?」
「ご無沙汰してます。詩織は?」
「上で寝てるわよ。カズくんが来たって知ったら、きっとあの子も喜ぶわね」
 上の階に通され、詩織の部屋に着く。以前来た時とほとんど変わらない光景があった。その中で詩織は、ベッドの上で横になっていた。
「よう」
「あ……カズくん。来てくれたんだ……」
「風邪はどうだ?」
「うん……まだあんまりよくないみたい」
 体を起こす。
「おい、あんまり無理するな。ちゃんと寝てなきゃ駄目だぞ」
「でも……カズくんが来てるのに……」
「大人しく寝てないと帰るぞ?」
「……わかった……寝てる」
 持ってきた袋からリンゴを取り出す。皿とナイフは詩織の母に借りておいた。
「リンゴ食うか?」
「……食べる」
 黙ってリンゴをむく。手先はそれなりに器用な方だと自負しているが、リンゴの皮むきはあまりやったことがない。
「……ごめんね」
「何で謝るんだよ」
「一緒に星見ようって……約束してたのに……」
「別にいいさ。七夕はこれからまだ何回もあるんだ。それに、今年は曇りみたいだからな。また来年に期待しようぜ」
「……うん」
「ほら、リンゴむけたぞ」
「……ありがと」
「起きてもいいぞ。そのままじゃ食えないだろ」
「……寝てる」
「いらないのか?」
「……いる」
「どうするんだよ」
「……」
「……」
「あーん」
 口を開けて待っている。
「はいはい……」
 詩織の口へリンゴを運ぶ。半分だけかじり、食べる。
「……おいしい」
「そうか。よかった」
「あーん」
 リンゴがなくなると、詩織は眠った。落ち着いたのか、満腹になったのかは分からないが、すやすやと寝息を立てて寝ている。
 することもなくなったので、おでこのタオルを交換する。すっかりぬるくなっていた。氷水につけてから絞り、詩織の頭に乗せなおす。上気した顔が色っぽく、一瞬目を奪われてしまった。
「早くよくなれよ」
 ベッドに寄りかかり、詩織の部屋を見渡す。一見すると前と同じだが、よく見ると細かいところが違っていて、年月の流れを感じさせた。壁にかかった制服は、中学の時の物からこの辺りでは有名な進学校の物になっていた。机の上の小物は、前に来た時よりも数が増えていた。カレンダーはどうやら前に来た時と同じところの物を使っているようで、デザインがほとんど同じだった。その日付の中には、一つ丸が付いている日があった。
「今日、か」
 七月七日に赤いペンで丸がしてあった。カズくんと星を見る日、と書いてある。ベッドの横の窓際を見ると、てるてる坊主がぶら下がっていた。
「楽しみにしてたんだな」
 窓の外を見ると、空は雲で覆われていた。耳を澄ますと、木が揺れる音、風が走る音が聞こえる。どうやら、かなり風が強いようだ。
 ベッドに寄りかかったままぼっとしていると、だんだんと眠くなってきた。詩織も寝ていることだし、俺が少しくらい寝ても大丈夫だろう。何かあれば、きっと起こすに違いない。
 そう思って俺は、まどろみに身を任せることにした。
 
 目が覚めると、外はもう暗くなっていた。
「しまった、寝すぎたか」
 背中を伸ばし、立ち上がる。ベッドを確認すると、そこに詩織の姿はなかった。
「詩織……?」
 おでこに乗せていたタオルは氷が溶けきった水の張ったボウルに入れられていて、ベッドの上にはパジャマが畳んで置いてあった。
 何が起きたのか分からず呆然としていると、携帯が鳴った。詩織からの着信だ。
「詩織か?」
『あ、カズくん起きたんだね』
「起きたんだねじゃないだろ。熱は下がったのか?」
『まだちょっとだけあるかな。でも、もうほとんどよくなったよ』
「全く……。今どこにいるんだ? 迎えに行く」
『今、中央公園の高台にいるよ』
「わかった。今から行くからそこにいろよ」
『はーい』
 公園に着くと、高台の頂上に詩織がいた。
「病み上がりはまだちゃんと寝てなきゃだめだろ」
「あ、カズくん。来てくれたんだ」
「迎えに行くって言ったろ」
「うん、そうだね」
 沈黙が流れる。よく見ると、詩織の様子がいつもと違う。
「まだ熱があるんじゃないのか?」
「え?」
「なんか、いつもと違う感じがする」
「わかっちゃった?」
「だったら、早く家に戻って」
「カズくん」
 詩織が俺を見据える。
「あのね、大事な話があるの」
「なんだよ、改まって」
「カズくんはさ、もうどこの大学受けるか決めた?」
「いや、まだだけど。とりあえず、近くの大学を受けようかと思ってる」
「私ね、東京の大学受けようと思ってるの」
「……ずいぶん急な話だな」
「本当はね、もっと前から決めてたの。四月くらいから」
「そう、だったのか」
 詩織の行った高校は進学校だから、忙しいのはわかる。最近塾にも通い出して、前以上に忙しくなっていたのは、このためだったのか。
「だからね、もし私が受験で受かったら、しばらくはこうして星を見ることもできなくなっちゃうんだよ」
「そう、だな」
「私、今日をすごく楽しみにしてたの。もしかしたら、カズくんと一緒に過ごせる最後の七夕になるかもしれないから、目いっぱい星空を楽しもうって。でも、風邪はひいちゃうし、空は曇りだし、ちょっと残念な七夕になっちゃったな」
「……」
「もっと早く言うつもりだったの。でも、どうしても言えなかった。私の心は決まってたけど、私はもっと、ずっとカズくんと一緒にいたいって。カズくんは優しいから、私が東京の大学に行くって言ったら、きっと応援してくれるんだと思う。だからそのために、私と出来るだけ会わないようにするんじゃないかって。そう思うと、なかなか言い出せなかったの。ごめんなさい」
 詩織の声は震えていた。目からは涙が流れていた。
「詩織が謝ることじゃない」
「カズくんは私が東京の大学を受けるって知ったら、どうする?」
 きっと俺は、詩織が勉強に集中できるように、出来るだけ会わないようにしただろう。詩織の推測は正しい。
「私、今日言おうって決めてたの。もう明日からは、今までみたいには会えない。私、もっと勉強しなくちゃいけないから。東京に行ったら、ますます会えなくなると思う。それでもいいって。今日話せば、いつかきっと、今みたいな気持でカズくんに会えると思ったから」
「どうしてそう思うんだ?」
「織姫と彦星が七夕に会うみたいに、私たちもきっと、またいつかこうして星を見られる日が来たらいいなって。そう思ったの」
「いつか、か」
「そう。いつか」
「長い話になりそうだな」
「カズくんは、待っててくれる?」
「……ああ」
「本当に?」
「待ってる。詩織が帰ってくるまで。いつまでも待ってる」
「……ありがとう」
 風が吹き抜けた。強烈な一陣の風。過ぎ去ったあとには再び静寂が降りた。
「……あ」
「どうした?」
「カズくん、空」
 空には、いつの間にか雲ひとつない満天の星空が広がっていた。吹き荒れた風のおかげで、雲が全て流されてしまったのだろう。空には無数の小さな光が輝き、巨大な川を成していた。その近くに、特に強く輝く星が二つ。星に詳しくない俺でもわかる。織姫と彦星がいた。
「綺麗……」
「ああ、綺麗だ」
「織姫と彦星、会えたね」
「そうだな」
「でも、またしばらくお別れになるんだよね」
「そうだな」
「私たちも、しばらくお別れだね」
「……そうだな」
「カズくんは、私を待っててくれるんだよね」
「そうだよ」
「でも私、きっと寂しくなる。いつか会えるってわかってても、きっと寂しくなるよ」
「俺は……」
 俺だって、そうだ。
「だからね。今日からしばらく、カズくんとはちゃんとお別れしなきゃいけないと思うの。会えるかもしれないって思うと、会いたくなって、寂しくなって、切なくなる。だから、いつかの七夕まで絶対に会わないって、ちゃんとお別れしよう」
「もう、決めたんだろ」
「うん。もう決めたの」
「なら、俺は何も言わないよ」
「ありがとう、カズくん」
 木のざわめきと、星の輝きと、俺と詩織だけがそこにいた。
「カズくん」
「なんだ?」
「ちょっとだけ、目つぶってくれる?」
 言われるがまま目をつぶると、一瞬だけ、詩織の温もりを感じた。
「これで、お別れだよ」
「……」
「私、今日のことを絶対に忘れない。カズくんにまた会うまで、絶対に」
「……俺も、忘れない」
「ありがとう、カズくん。……さよなら」
 精いっぱいの笑顔だった。その瞳からは、涙がこぼれていた。
「……さよなら、詩織」
 背を向けて歩きだした。その笑顔も、涙も。もう見ることはできなかった。頬に熱いものを感じ、拭ってみると涙だった。また会える。きっと会える。そう言い聞かせても、涙は止まらなかった。その背中にかけようと思った言葉が一つあった。
またな
 しかしその言葉はついに喉を出ることはなく、詩織に届くことは永遠になかった。
 
 その翌年の春、詩織は東京の大学に合格し、旅立った。俺は見送りには行かず、その日も家のベランダから空を眺めていた。
 
 七月七日。七夕。
 詩織と別れてから、もう四年が経った。大学生活は滞りなく進み、就職活動も終わってあとは卒業研究を控えるのみとなった。
 今日はとても天気が良かった。昼からずっと晴れていて、夜になってもたくさんの星が瞬いている。これだけきれいな七夕の夜空を見るのはずいぶん久しぶりのような気がする。あの日と同じくらいの、とてもきれいな星空だ。
 あの日以来、俺は七夕の日に限っては、中央公園の高台で星を見るようにしている。また、あの日のように会えると信じて、待っている。
「今年は、織姫と彦星は会えたみたいだな」
 返事はなかった。あの日以来、詩織がここへ来ることは一度もなかった。でも、俺はどこかで分かっていたような気がする。あの言葉をかけることができなかったその瞬間から、もう詩織と会うことはないのだろうと心のどこかで思っていた。
 それでも俺は、待ち続ける。二人で並んで、星空を見上げられる日が来ることを信じて。俺は、待ち続ける。

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